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当行職員の「今」の声をお届けします。

職員の声1 菊田 吉紘(2011年4月入行)

 当時、私は大学4年生で、4月に仙台銀行への入行を控える中での震災発生でした。大学の卒業式は中止となり、入行式も延期となるなど、これからの期待は不安へと変わりました。
 入行までは、宮城県の沿岸地域にある親戚宅の復旧作業等を手伝いながら過ごしました。地域全体が大きなダメージを受ける中、無事に入行できるのかと不安に感じていましたが、当初予定から約2週間遅れの4月18日に入行式が行われ、正式に仙台銀行の職員となりました。
 入行後は本店営業部に配属となり、窓口業務を担当しました。新入行員だったこともあり、業務を通じて復興支援に貢献するということが難しかったため、業務以外の面で行える支援の取り組みを模索しました。
 震災当時は新入行員だった私も、入行して10年となりました。融資渉外担当として、これからも、1先でも多くのお客さまのもとへ足を運び、震災からの復興とともに、新型コロナウイルス感染症により影響を受けられている事業者さまの支援に尽力していきたいと思います。

菊田 吉紘


職員の声2 三澤 志帆(当時高校2年生)

 東日本大震災の当時、私は沿岸部に住んでおり、高校2年生でした。今まで経験したことのない大きな揺れと生まれ育った町が一瞬にして姿を変えてしまった情景を目の当たりにし、言葉も出ないほどの絶望感でした。あらゆるライフラインが寸断され、家族や友人と連絡が取れず、先が見えない状況に不安でいっぱいだったのを現在でも鮮明に覚えています。
 その後、多くの方々の支援により、少しずつ復興が進展。ようやく学校も再開し、卒業後の進路を考える時期を迎えました。震災を経験し、全国、海外の皆さまからの支援の有り難さや協力、団結することの大切さを改めて確認したことで、「地元で働き、復興に携わりたい」という思いが強くなり、仙台銀行への入行を決めました。
 2012年4月の入行後は、石巻支店へ配属となり、窓口業務を担当しました。窓口でのお客さまとのコミュニケーションの中で、復興の明るい話題を伺うのがとても楽しみでした。
 現在は仙台市内の部署へ異動し、法人融資渉外を担当しております。この度の新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、影響を受けていらっしゃる皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。コロナ禍での銀行員としての役割は、常にお客さまに寄り添い、悩み事があった時に一番に相談したいと思っていただけるような頼れる存在であることだと思います。当行は人で勝負する銀行です。これからもたくさんの経験を積み重ね、お客さまとの出会いを大切にして、皆さまとともに地域をより良い方向へ盛り上げていきたいです。

三澤 志帆


職員の声3 阿部 貴裕(当時石巻支店勤務)

 当時、私は入行1年目で石巻支店に勤務していました。震災の発生当日は本店での研修のため石巻を離れており、翌週にようやく自転車で帰宅することができました。石巻の自宅は床上2m近い浸水がありましたが、幸い家族は無事でした。凍える寒さの中、庭に流れ着いた食料を食べて空腹を満たしたことは今でも忘れられません。
 石巻支店も浸水の被害は床上1m程度ありましたが、職員全員と無事に再会することができました。当時の担当業務は得意先の集金業務が主でしたので、日々の業務そのものが喪失しました。電気、水道、ガス、あらゆるライフラインが断絶し、ATMや各種端末等の設備、営業車両も被災。雪かき用のスコップで営業店駐車場の泥かきをすることが、当面の主担当業務となりました。支店長や次長、先輩方はお客さまの被災状況の確認や支援方法の検討、営業店業務の再開に向けた情報交換や調整等に奔走する中、新入行員であった私は、地元石巻のために力になりたいという想いを持ちながらも、できる仕事は泥かきや水汲みといったことしかなく、銀行員としての無力感や悔しさを痛感する日々でした。銀行員として社会に貢献するためには「頭に汗をかく(知識を蓄える)」しかないと感じたのもこの頃です。
 その後、徐々に経験を重ね、被災企業への復興資金の融資や、個人のお客さまの住宅ローンなどの対応させていただくようになりました。その1件1件すべてに思い入れはありますが、流出した自宅の再建について、資金計画から補助金申請、ご融資手続き完了まで約1年に渡り支援させていただいた、あるお客さまがいました。建物の完成引渡時に招いていただき、「阿部くんでよかった」と涙を流して喜んでくれました。まさに銀行員冥利に尽きる経験でした。
 当時の支店長は折に触れて「ここにあなたの足跡を残しなさい」と指導してくれました。どのような形であれ、震災時に自分という職員が確かに在籍していたというなにかを残したいと、いつの日からか考えるようになりました。それは転勤しても、「その地その地、今いる場所で確かな足跡を残していきなさい」との意味に咀嚼し、現在にも繋がっています。
 この震災により、最も大切な友人を亡くしました。実家や母校の校舎も解体され、写真や映像といった形ある思い出もほとんど無くしてしまいました。この震災がなければと今でも思うことはありますが、時間は戻ることはありません。被災地では新たな問題が浮き彫りになっています。今般の新型コロナウイルス感染症の影響拡大も重なって、ビジネスモデルそのものが失われた企業も数多く存在しており、立ち止まる猶予もありません。東北・宮城が好きで、本気で想い、様々な事業の成長を、心を込め支えること、力強く応援すること(本業支援)。これからも銀行員として、自己研鑽に励み、力強く確かな足跡を残していきます。

阿部 貴裕

 


職員の声4 武田 信(地元企業応援部発足時在籍)

 震災当時の2011年3月、私は、現在の「地元企業応援部」の前身組織である「法人開拓プロジェクトチーム」に在籍していました。未曾有の大震災を目の当たりにし、何もできない無力さを感じるとともに、とにかく地元宮城の復興のため、自分に何ができるのかを常に考え、営業店職員とともに、ひたすらにお客さまの事業支援、資金繰り支援に奔走する毎日でした。
 震災から3か月後の2011年6月、地元宮城の早期復興に資するべく、地元企業応援部が創設されました。「お客さまの事業の復興を全力で応援する」という本気の覚悟と想いが詰まった部署名です。私は、この部署名に誇りを感じています。部の発足式において、自ら関係者全員の前で堅く誓った「復興の礎を築く」という言葉は、今でも忘れません。
 東日本大震災からの10年間、私は、地元宮城の早期復興を実現するべく、全力で駆け抜けてまいりました。地域金融機関として、復興の礎を築くために一定の役割を果たして来られたものと思いますし、震災の記憶を風化させないためにも、これまで出会った人たちとの絆を大切に、今後も日々精進してまいります。
 現在、私は地元企業応援部の法人推進室長を務めております。コロナ禍という先行き不透明な状況において、地元企業応援部の果たすべき役割も少しずつ変化しており、「コロナで苦しむ地元宮城の事業者を支え、この困難をともに乗り切り、導くこと」にあると私は思います。今後も、「地元企業応援部」の名に恥じぬよう、地元宮城の発展のために全力で取り組んでまいります。

地元企業応援部発足式集合写真

地元企業応援部発足式


職員の声5 伊東 亜子(地元企業応援部発足時在籍)

 震災発生時、私は本店ビルの7階で事務作業をしていました。その場に立つことも出来ず、PCやキャビネットがバタバタと倒れ、壁に亀裂が入るのを目の当たりにし、その場にうずくまることしか出来ませんでした。
 当時私は、法人開拓プロジェクトチームに所属していました。新規見込先の法人のお客さまを訪問し、ご融資等の提案を行うことが主な業務でしたが、震災によりしばらくは通常の業務を行うことが困難となりました。混乱と不安の中でしたが、当時のチーム一丸となって「今自分たちにできること」を考え、被災した営業店へ物資供給や朝早くから営業車両への給油に並ぶなど、少しでも役に立ちたいと思い行動しました。また、被災企業への融資制度に関する情報を集めてお客さまへ提供したり、混乱を極める営業店窓口をフォローしたりと、自分にできることを探しては行動に移す日々でした。
 2011年6月、復興支援に向けた体制強化を目的とし創設された、地元企業応援部の推進室に配属されました。お客さまの支援と各営業店のフォローに必死で取り組んでいた毎日でした。当時は、微力ながら自分でも貢献できることがあればと、ただがむしゃらに行動していたことが思い出されます。
 震災から10年が経過し、復興が進んでいるとはいえ、今なお震災の影響により事業再建を果たせずにいるお客さまもいらっしゃいます。加えて、新型コロナウイルス感染症の拡大でより厳しい状況に置かれているお客さまも多くいらっしゃいます。今後も、常に「今自分にできること」を考え、地域の復興を後押し出来るよう、ご融資だけでなく、多方面からの情報提供等、お客さまの本業を支える存在でありたいと思います。
 私は今、融資部の審査課に在籍しています。直接お客さまのもとへ訪問する部署ではありませんが、お客さまの復興と発展を側面から支援していければと考えています。

発足式で決意表明する武田(左)、伊東(右)

発足式で決意表明する武田(左)、伊東(右)


(2021年3月現在)